Masuk翌朝。瑠理子は自室で目覚めた。もう二度と淳に関わらないでおこうと思う反面、自分が突っぱねることによって、彼の行き場がなくなるのではないかと心配している自分もいた。 矛盾した感情が彼女の思考をおかしくさせる。 昨日、父の部屋での続きを思い出した。御堂直之との見合いの了承後、茶を持ってきた淳が出て行ってからの話だ。「あの子の父親は、財務担当役員だったのだ。二十年前、うちが銀行に見放されかけたとき、たった一人で全国の取引先を回って頭を下げ続けた。あの人がいなければ、海原グループはとっくに消えていた」 知っている。 瑠理子は前世で何度もその話を父から聞いていた。 しかしまるで初めて聞いたようにふるまわなければならない。「その恩人の忘れ形見が、事故で両親を亡くして、身寄りをなくした。二郎が方々を当たって、あの子の居場所をようやく突き止めてくれたんだ。うちが引き取らなければ、あの子はどこへ行く」「……お父様」「瑠理子。海原の人間は、恩を返せなくなったら終わりだ」 瑠理子は膝の上で指を組み直した。淳を追い出すことは難しそうだが、彼が路頭に迷うのも気が引けた。 今はまだ、彼は自分を殺していない。 これからそうするのかもしれないが、そうなる前に手を討てばいい。 今世では関わらないように生きれば、いいのではないか。 「わかりました。では、条件を出させてください」 父が初めて振り返った。娘の顔に見慣れない硬さを見つけて、わずかに眉を寄せる。「彼の部屋は、母屋ではなく使用人棟にしてください。それから、会社の書類がある部屋には近づけないこと。役員の集まりにも同席させないこと。海原グループに入社などは認めません」「……瑠理子、お前」「恩を返すというのは、住まいと学費を用意することでしょう。海原グループとは関りを持って欲しくありません」 言い終えてから、瑠理子は自分の声が思ったより冷たく響いたことに気づいた。 長い沈黙のあと、父
その日は朝から陰鬱な雨が続いていた。淳が大学から戻った頃には、雨脚はさらに強くなっていた。父と母は外出していた。どこへ行ったのかまでは聞いていなかったが、夕食までには戻ると聞いていたのに、夜になっても帰ってこなかった。 何度か電話をかけたが、父のスマートフォンは繋がらなかった。 淳はなんとなく嫌な予感がしていた。 もう一度父か母に連絡を取ろうとした時、スマートフォンが鳴った。知らない番号がディスプレイに表示されている。「はい」『橘淳さんのお電話でしょうか』「そうですけど」 相手は警察だと名乗った。『警察』と聞いた瞬間、身体の芯が冷えた。「……父に、何か?」 声が震えた。頼む頼む、無事であってくれ――『ご両親が交通事故に遭われました』 急いで病院へ駆けつけたときには、父も母ももう帰らぬ人になっていた。 警察は事故だと言った。雨で濡れた高速道路で父の車が車線を外れ、大型トラックと衝突したのだと。 淳は前夜に録音した音声も聞かせて警察に訴えた。『約束が違う』『私はもう黙っていられない』『証拠ならある』 けれど、相手の声は入っていない。 事故車両にも不自然な細工は見つからず、警察は事故との関連を認めてくれなかった。「――警察は事故だと言いました」 淳はグラスを見つめたまま呟いた。「でも俺は納得できません。二郎さんの言う通り、父も母も誰かに殺されたんです!」「そうだろうね」 二郎は静かに頷いた。「前日にそ
「……殺されたってどういうことですか?」 淳が二郎に詰め寄った。「なにか知っているのですか!?」 「しっ。声が大きい」 「あ、すみません……」 慌てて声のトーンを落とす。 「落ち着いて聞いて欲しい。殺されたとは言ったが、これは私の憶測にすぎないんだよ」 まあ飲もう、と言って二郎は淳にひとつグラスを渡した。持参したワインを注いでくれた。芳醇な香りがした。 「警察は事故だと判断した。証拠もない。だから私は、誰かを犯人だと言うつもりはないよ」 「じゃあ、どうしてそんなことを?」 「義昭さんが亡くなる直前、様子がおかしかったからだ」 淳の胸が大きく鳴った。父とのやり取りが脳裏に蘇る。 「……父さんの?」 「君も何か見たんじゃないか?」 二郎は淳を見た。 「事故の前に」 淳はすぐには答えられなかった。 あの夜の光景が、鮮明に蘇る。 落ちた書類から見えた、三億二千万円という巨額の送金。そして怯えていた父が電話口で叫んでいた言葉。『私はもう黙っていられない』『証拠ならある』 淳は唇を湿らせた。 「二郎さんは、海原グループの会長なんですか?」「いや。会長は父だよ。兄の一郎が社長で、私は副社長だ」 (なら、この人は父さんが気を付けろと言っていた、会長じゃない……) 淳は父とのやり取りを、自分のことで親身になり、世話をしてくれた二郎に話してみることにした。「……死ぬ前日、父さんは家に会社の書類を持ち帰っていたようです」 「まあ、財務担当だから、書類を持ち帰ることもあっただろう。本来はご法度なんだがね」 淳は二郎の顔をじっと見ていた。 書類の話をした瞬間、何か反応が出るのではないかと思ったのだ。 しかし二郎は続きを急かすこともなく、静かにグラスを傾けている。 (……この人じゃないな。なら、続きを話してもいいか)「海外法人への送金記録でした。三億以上の金が動いていて、知らない会社の名前がいくつも並んでいました。この目で見たんです」「そうか」 様子を伺っているが、彼はいたって冷静だ。「それについて尋ねたら、父さんはすごく怒りました。あんなに取り乱した父さんを見たのは初めてでした」 二郎がわずかに眉を寄せた。「それだけじゃありません」 一度話し始めると、止められなかった。 あ
「父さん?」 淳は、リビングの明かりがついていることに気づいた。時刻は深夜零時を大幅に回っていた。 父・橘義昭が、ダイニングテーブルに大量の書類を広げている。 昔から仕事熱心な男ではあったが、その夜は様子が違った。ネクタイは外れ、シャツのボタンも二つ開いている。灰皿には、普段ほとんど吸わない煙草が何本も潰されていた。 淳に声をかけられた義昭が、慌てて紙を裏返した。かなり焦っている様子だ。「まだ起きてたのか」「そっちこそ。こんな時間まで仕事?」「ああ……まあな」「顔色悪いけど……」「大丈夫だ」 明らかに大丈夫ではなかった。父の手が小刻みに震えている。 淳は父のいるテーブルへと近づいた。「仕事で何かあったの?」「何もない」「じゃあ、その書類は?」「淳」 突然、強い声で遮られた。父がこんな恐ろしい声を出したことはほとんどなかった。「これは、お前には関係ない話だ」「……わかったよ」 淳が引こうとしたとき、先ほど父が裏返した紙のうち、はみ出た一部が落ちた。 拾い上げると、海原グループの内部資料だった。 それは海外法人への送金記録で、三億二千万円ほどの額。その下に見慣れない会社名が並んでいた。「父さん、これ」 義昭が紙を奪った。「見るな!」 怒鳴り声が部屋に響いた。 二人とも動かなかった。 やがて義昭が、苦しそうに顔を歪める。「……怒鳴ったりしてすまん」「何なんだよ」「なんでもない」「なんでもないわけないだろ。なんだよそれ! 怪しい書類か?」 淳は父を睨んだ。「最近ずっと変だ。電話が鳴るたびに外へ出るし、誰かに尾けられてるみたいに後ろばかり気にしてる」「淳」「会社で何かあったんだろ!」 義昭は答えなかったが、その沈黙こそが答えだった。「海原グループが関係してるの? 父さん、いつも一郎さんのこと自慢してたじゃん」 父の肩が強張ったのを、淳は見逃さなかった。「海原で何が起きてる?」「……何も聞くな」「父さん」「頼む」 義昭は両手で顔を覆った。その姿を見た瞬間、淳の怒りが消えた。 父が怯えている。仕事一筋で、多少のことでは動じない男なのに、この怯えようはなんだ? いったい、なにが起こっているんだろう。「淳」 義昭が、ゆっくり顔を上げた。「もし、万が一、俺たちに何かあったら……」「何言って
その後、淳は予定通り使用人としての部屋をあてがってもらい、海原家のベッドで眠ることができた。 なかなか寝付けなかったが、ようやく寝付いたと思った頃、唐突に意識を引き戻された。 また、あの夢だった。 視界を埋め尽くす、底知れぬ漆黒の水面。 吹き荒れる夜風に煽られ、乱れる濡れた長い黒髪。 崖の突端に、雨に打たれた白いドレスを纏った美しい女が、ひとり背を向けて立ち尽くしている。 場面が変わる。場所はどこかの別荘のようだ。 女性が自分をすり抜けて走っていく。 波が崖へ叩きつけられるたび、白い飛沫が闇の中へ舞い上がった。 淳は裸足で走っていた。足の裏が切れているのか、一歩踏み出すたびに痛む。それでも止まることができない。 少し先を、先ほどの女性が走っている。長い黒髪に雨に濡れた白い服。 「待って!」 叫んだはずなのに声が出ず、女性は振り返らない。 その先には崖しかなかった。恐ろしい程に牙を剥いた波が、その身を岸壁にたたきつけるようにしてしぶきを上げている。 ――行くな!――そっちへ行くな!! 手を伸ばそうとしても、指先ひとつ動かない。 喉を裂くように叫ぼうとしても、声は掠れた吐息になって消えていく。 それでも淳は必死に手を伸ばす。 あと少しで届くその瞬間、女性が立ち止まった。 ゆっくりと振り返る。 なぜか顔は見えない。 ただ、泣いていることだけはわかった。雨で濡れたのではない。 ぼんやりと輪郭の見えない顔なのに、その目からは涙があふれていた。 『一度でも……』 彼女の唇が動く。 『私を愛したことはあった?』 「……っ!」 次の瞬間、彼女の姿が崖の向こうへ消えた。 慌てて彼女を追いかけ、淳は手すりを越えて飛び込む。 冷たい海はまるで暗黒。光の一切入らない暗闇に覆われている。 その水の中に、白い手が沈んでいく。 掴もうとしたけれど、それは届かない。 自分からどんどん離れて行く。 もう掴めないのか? この気持ちを伝えることはできないのか? こんなにも愛しく思う気持ちを、どうして伝えられないのか――「瑠理子――!」 今度は、はっきりと声が出た。 自分の声で目が覚めた。気が付くと見慣れない天井が目に飛び込んでくる。(ここは……) 暗闇の中で、荒く乱れた呼気が部屋に
その日の夕食後。館の空気が夜の静寂へと沈み始めた頃、瑠理子は意を決して二階の奥にある父の書斎の扉をノックした。「入りなさい」 低く重みのある声に応じ、瑠理子は静かにドアを開けて中へ足を踏み入れた。 重厚なマホガニーの机に向かい、眼鏡越しに決算書へ目を通していた父が、瑠理子の姿を認めるとわずかに眉尻を下げてペンを置いた。「瑠理子。……昼の非礼についてなら、私から淳君にそれとなくフォローを入れておいた。彼も気にしていないと言っていたから、お前もそう頑なになるな」「私の意思は変わりませんわ」「瑠理子……」「あと、御堂直之さんの所に連絡はしていただけました?」「お前、あんなに嫌がっていたのに……。『顔も知らない十歳以上も離れた人と政略結婚なんて絶対にお断りだ』と、手紙すら突き返したはずだが、どういう風の吹きまわしだ?」――当時の十八歳の瑠理子にとっては。 知らない男に人生を売り渡すような結婚なんて考えられなかった。 いつか巡り会う運命の相手と恋をして、世界で一番幸せな花嫁になって、温かい家庭を築いてずっと一緒に生きていく――彼女はそう信じていたから。 しかし、その甘い夢を信じていた相手に、すべてを踏みにじられ、殺された。「気が変わりました」 毅然と言う瑠理子へなにか言いたそうな一郎のもとに、電話が入った。「……何?」 受話器を持った父が、珍しく声を上げた。瑠理子は、冷静な彼が取り乱すような声を上げているので気になった。「承知しました。何卒、よろしくお願いいたします」 受話器を置いた彼が、深いため息をついた。「どうしたの、お父様」 一郎は信じられないものを見るように娘を見た。「電話、御堂家からだった」「どのようなご回答をいただいたのですか?」 まさか断られたのか――「先方も縁談を進めたいそうだ」「それは良いお話ですわ」「いや、それだけじゃない」 父の表情が険しくなる。「直之氏本人が、そう言っているらしい」 瑠理子の視線が揺れた。「ご本人が?」「ああ」 父自身も理解できないようだった。「あの御堂直之氏が、だ」 女性との縁談をすべて断ってきた男。結婚する気がないとまで噂されていた男。 その男が、顔も合わせたことのない自分との縁談を、わずか数時間で受けた? 瑠理子にとってはありがたい話だが、こうもうまく未来が切り







